
2026年も、よろしくお願い申し上げます。
昨年11月の「米ある暮らし展」には、たくさんのご来場をいただきまして、誠にありがとうございました。
Myお米づくりに、自然米イベントの開催。また一つ、無限やりたいことリストにチェックを入れることができました。
ひとりでは成し得ないことも、みなさまの力と知恵で、現実になるのですね。すごい。
2025年も嵐のような子育てとキッチンカーで駆け抜けた1年間でしたが、今年は「ひのえうま(丙午)」ということで、さらに恐ろしいことになっちゃいますねコリャ。
足折れるまで、止まらないのか。
突然ですが、昨年から、言いたい伝えたい、でも言葉にすると、なんか自分の思ってるのと違う、と書いては消しての繰り返しだった重いテーマについて、意を決して取り組みたいと思います。
お肉とは、何か
御結びはるりんは、基本的にお肉を使わないコンセプトでやっています。
でも、ジビエは別。むしろ、私は積極的に扱いたいと思っています。
今日はその理由を、ちゃんと言葉にして残しておきます。
テーマは「ジビエ」。そして「命をいただく」ということ。
まず、“一般的なお肉”について考えてみます。
「お肉」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは
たぶん 鶏・牛・豚 だと思います。
それが自分のお皿に乗って出てくるまでの背景を考えると、私はどうしても見過ごせない点がいくつかありました。

環境への負荷のこと
たとえば牛や豚は、げっぷやおならなどでメタンガスを発生させます。
牛1頭が1年間に排出するメタンガス(温室効果ガス換算)が、ガソリン車1台分、あるいは1.7台分に相当するという試算もあります。
もちろん環境問題は複雑で、単純な善悪では語れません。
それでも私は、「自分の食卓から」できることはあると思っています。

格差や飢餓につながる構造のこと
畜産のための穀物飼料が増えすぎて、人間が食べる穀物を圧迫している——
世界の穀物生産量の約1/3が家畜の飼料に回っているという実態もあると言われています。
毎日牛肉を当たり前に食べる人が増え続けたら、世界の飢餓がなくなるはずがない。
もちろん応援したい団体への寄付も、できる範囲ですが協力しています。
募金活動等の直接支援に携わる方々には、頭が上がりません。
しかし手段は、一つじゃない。
私は食卓から考えたい。
「貧しい子どもたちかわいそう」と言いながら、牛肉を食べて募金をするよりも、
まず目の前の食卓から見直す方がベターだと思っています。
「遠くの募金より、今日の食卓」
何を基準に選び、何を買うか。
その毎日の行動が、地味で地道な社会活動であり、細く長く続く意思表示だと信じています。

倫理(ファクトリーファーミング)のこと
世界の畜産の多くが、工場的な畜産(ファクトリーファーミング)だとも言われています。
その実態は、少し調べるだけでも、動物が好きな人ほど目を背けたくなるものが出てきます。
さらに、大規模に飼料を作るために自然林が破壊され、畑が拡大し、農薬や遺伝子組み換え作物、抗生物質など……
いろいろな問題が複雑に絡み合っている。
ここに「倫理的にどうなのか」という問いが加わると、私はもう、簡単には飲み込めません。
以上のことから、お肉は使わない。でも、ジビエは別。

人類はもともと狩猟してきた
1)人類はもともと狩猟してきた
人類は縄文時代から狩猟をしてきました。
(田んぼも縄文から始まったとも言われます。)
歴史的に考えたとき、私たちをつくってきた“食のルーツ”の形を、
おむはるは大切にしたいと思っています。
2)獣害駆除で「獲って捨てる」現実への違和感
獣害が深刻化する中、田舎では「獣害駆除で獲って、廃棄する」という現実があります。
その実態を知ったとき、私は強い違和感を覚えました。
そもそも私たちは「害獣」と呼んでいるけれど、
猪や鹿や熊からしたら、人間こそが“それ”かもしれない。
駆除して、耳や尻尾を役所に提出して、報奨金をもらって終わり。
そして「肉を裁くのは手間じゃし、みんな臭い言うて食わん」と猟師さん——
3)命を無駄にしたくない。ちゃんといただきたい
命を無駄にするのは、バチが当たりそうだ、という感覚もあります。
でもそれだけじゃありません。
捕り方、締め方、処理が丁寧なら、ジビエは本当においしい。
お肉の味がする。
そして私は、お肉だけじゃなく
皮や骨も、なるべく全部をありがたく使えたらいいと願っています。
だからこそ、想いを持って猟師をしている人たちから、感謝してお肉をいただく
という形を選びたいと思っています。
結局、これは「お肉」だけの話じゃない。
野菜も、米も、豆も、魚も。
私たちは命をいただいて生きています。
私たち人類に、共感力が備わっているのは、なぜか。人間だから、せっかく言語化できるんだから。
他者の命を奪うという意識を持つことに、責任があると思うようになりました。
おむはるのジビエは、「特別なメニュー」ではなくて、
命と向き合うための選択肢のひとつです。


食べたもので、私はできている
コレよし、アレだめ、と正解を押しつけたいわけではありません。
偽善だと言われれば、否定もできません。
園や小学校の完全給食(主食・主菜・副菜・牛乳)も毎日おいしく完食している我が子ですし、自分の子育てスタンスとしては、「食べるものも含め、自分のことは自分で決めよう」です。
子どもたちの、「つくってみたい!」も、応援します。チョコでも生クリームでも卵でも、目的のために必要ならば、本人の気持ちをできる限り尊重します。もちろん、お財布事情はこちら案件なので、叶わないこともありますがw
ハレの日には、焼肉屋さんにも行く我が家です。
そうやってのびのびやっていると、結局子どもたちは、「御結びはるりんのご飯がやっぱり一番好き」、となってくれるのですね。
食べたもので、私はできている。
大人たちは新たな命を育むために、毎日、誰かの「命」を奪っているということ、そして選ぶことには、責任があるということ。
だから、感謝の気持ちを毎食持って、大切な人と美味しくいただく。
そういうことを、みんなで考えて、あえて言葉にしていく日があってもいいじゃないか、と。
御節料理をいただきながら、そんなことをますます考えてしまう正月だったということで、やっと筆を置きます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
